卒業された患者様からのお手紙を紹介しています。
思った通りにいかず、何度も壁に立ち向かいながら、
私達と協力して治療に臨み、卒業していかれた患者様。
不妊治療も含めて、生殖の歴史は本当に色とりどりで、
お一人お一人の大切な物語であることを、改めて感じさせるお手紙です。
(以下、お手紙の内容です)
子供が欲しいなと思い始めたのが36歳。遅い出発でした。
33歳の時に卵巣嚢腫で左を全摘していたので、
「右だけの卵巣で大丈夫なのか?」
と普通の産科で相談して、
「タイミングをやってみましょう」
と半年頑張りました。
その間、通水検査もして卵管も通っているということだったので、さらに半年続けるも結果が出ず、
おかしいと思い、大きな総合病院の参加で卵管造影検査を行ったところ、詰まっていることが判明。
「人工的に子どもを作るまではしない」
と決めていた私達の前に大きな厚い壁が立ちはだかったのは言うまでもありません。
それから随分不妊治療について調べ、治療をしたって最後の部分はだれも手を加えることができない聖域だとわかり、
ついに38歳で京野アートクリニックの門を叩きました。
いろいろ検査をした結果、最初から顕微授精というところから入ることになったのですが、
採卵をするまでのタイミング、注射、通院、どれをとっても大変でした。
それでも子供を授かりたいという気持ち、そして私たちは先生の存在に支えられていたといっても
過言ではありません。
誠実なお人柄、そしてこの先生のもとでなら頑張れる!といった何か目に見えない力を持っていらっしゃると思います。
そして3度目の凍結胚移植でやっと子どもを授かることができたのですが、
何の障害も見た目にはなかったものの、7カ月でお空にかえってしまいました。
まさか自分たちに…という思いはぬぐえませんでしたが、その子の寿命は7カ月だったのです。
高度医療で授かった子供だからということではありません。
本当に本当につらかったですが、どこからか力が湧いてきて、もう一度先生のところで不妊治療を再開しました。
そして1回目の移植で、今こうして娘を腕の中に抱くことができています。
不妊治療は先生方がすべてを握っているのではありません。
その人その人のタイミングであったり、卵の生命力であったり、人知を超えたところにあります。
なので、そのことをよく理解した上で病院や先生の力をお借りして、進めていくべき治療だと思います。
AMHの値が非常に低い私が、41歳を目前に無事出産できたことは、本当に奇跡だと思います。
そして上の子がお腹に来てくれたからこそ、今の子を授かることが出来ました。
どうかどんな結果になっても恐れずに一歩を踏み出してみてください。
奇跡は踏み出した者にしか訪れません。
本当に本当に京野院長、スタッフの皆さまありがとうございました!
(お手紙はここまで)
生殖補助医療は文字通り、生殖の「補助」を行うものです。
私達は命が生み出されるのをサポートしているだけとも言えます。
ご夫婦の意思を、未来への想いも、少しでもつなげられるよう努力していきます。
素敵なお手紙と素晴らしいメッセージを本当にありがとうございます。
次の患者様へその想いをつなげていきたいと思います。